なぜ文学作品を学校で読むのか(1)

文学作品の解釈は作者が示した考えこそが正しいとしばしば思われています。

 

たとえば、「となりのトトロ」の登場人物に影がなかったことをもとにトトロは死神なのではないかといった噂が立ちましたが、スタジオジブリが否定したことで、そのような解釈は誤りだと認識されています。

「トトロ、実は死神」はウソ ジブリが「都市伝説」を否定していた: J-CAST ニュース

 

また、次の記事はそうした考えがあることを前提とした企画ですね。

国語の読解問題、作者自身が解いたら満点取れるのか!? :: デイリーポータルZ

途中に「本当のところは作者に聞いてみないと分からなくない⁉」とありますね。

 

さて、文学作品の意味は作者が決定するものなのでしょうか。

もし作者が決定するのだとすれば、文学作品を使った試験問題の解答は作者にしかわからないということになりそうです。

 

では、次のような例を考えてみます。

政治家が記者からの質問に「そんなことを言うやつは馬鹿だ」(①)といった失言をする。それが炎上して、後に「貶める意図はなかった」(②)と釈明する。

このようなニュースをたまに見ますよね。

 

②の発言を聞いて、①の発言には「本当は貶めるつもりはなかったんだなあ」と捉える人はあまりいないでしょう。

大抵の人は、「①の発言には馬鹿にする意図があったけど、それを見逃してほしくて②の発言をしたんだろう」といったように捉えることと思います。

 

これは「発言の意味は発言者が決定できるものではない」ということを示しているように思います。

 

文学作品の意味も同様に考えてよいはずです。

つまり、「文学作品の意味は作者が決定できるものではない」ということです。

 

では、そうすると、文学作品の意味は誰が決定することになるのでしょうか。