なぜ文学作品を学校で読むのか(3)

前々回の(1)では作家論的な考え方、前回の(2)では読者論的な考え方に基づいて、文学作品の意味を決めるのは誰かということを考えてきました。

もし文学作品の意味を決めるのが作者でも読者でもないとすれば、一体誰がその意味を決めるのでしょうか。

 

文学作品の意味は特定の個人が決めるものではなく、作者をも含むあらゆる読者とのコミュニケーションによって決まる、というのが私が支持するコミュニケーション論的な考えです。

 

政治家の例を再び考えてみましょう。

政治家が記者からの質問に「そんなことを言うやつは馬鹿だ」(①)といった失言をする。それが炎上して、後に「貶める意図はなかった」(②)と釈明する。

この②の発言を聞いて、①の発言には「本当は貶めるつもりはなかったんだなあ」と捉える人はあまりいないだろうと述べましたが、いないわけではありません。

 

その人達(肯定派)は、「①の発言には馬鹿にする意図があったけど、それを見逃してほしくて②の発言をしたんだろう」(③)といった捉え方をする人達(否定派)を批判するでしょう。逆に、否定派も肯定派を批判することでしょう。また、否定派でも肯定派でもない、どちらともいえずにコミュニケーションを傍観している人達もいるはずです。

 

おそらくそうしたコミュニケーションの中では、その政治家のそれまでの言動を根拠に、その発言の意図(意味)を確定しようとします。

そのようなコミュニケーションの末に、全員が合意した結果がその意味となります。

 

しかし、全員の考えが完全に一致することなんて、ほぼほぼ起こらないでしょう。

けれど、①の発言を「酒が飲みたい」という意味だと捉える人はいないでしょう。だいたい②か③あたりになるぐらいは一致するはずです。

 

そのため、意味は緩やかな範囲がコミュニケーションを通して決まり、その中心的な意味をめぐってコミュニケーションが(誰も話題にしなくなるまで)続いていくということになります。

はじめに「コミュニケーションによって決まる」と書きましたが、「コミュニケーションを通して更新され続ける」とするほうが適切かもしれません。

 

文学作品の場合も同じように考えられるはずです。が、長くなってしまったので文学作品の例はぜひ考えてみてください。

もしこのように考えられるならば、文学作品を学校で読む意味も見えてきます。

教室で解釈の交流を行うことは、異なる考えを持つ他者との意味をめぐるコミュニケーションを行うことにつながります。同じ考えを持っていると思っていた友達が全く異なる考えを持っていることを知るという経験もできるかもしれません。

このような学びが生じる教室づくりが国語教師には求められます。