なぜ文学作品を学校で読むのか(2)

文学作品の意味は誰が決定するのでしょうか

作者でないとすれば、読者でしょうか。

 

もし作品の意味を読者が自由に決定してよいのであれば、作者が何を考えていたのかなんて考えることはナンセンスですね。作者のことを調べるなんていうことは時間の無駄です。

 

トトロの例を考えると、ジブリ公式が何を言っているのかを気にする必要なんて全くないのです。

トトロを死神と捉えてもいいし、死神ではないと捉えてもいいし、どっちでもいいのです。

 

もし、このように考えていってよいならば、文学作品を授業で扱うのも時間の無駄のように思えます。

正解は人それぞれなのですから、文学の授業では「A君は〇〇と考えるんだね~。B君は××と考えるんだね~。みんな、いい考えだね~」となって終わりです。

 

しかし、本当にそれでよいのでしょうか。

 

トトロを死神と捉えるか否かは解釈の余地がありますが、読者が本当に自由に解釈してよいのであれば、トトロをおっさんの着ぐるみと捉えても、金の亡者と捉えても、なんでもいいということになるはずです。

しかし、着ぐるみのおっさんと捉えるのはいくらなんでも無理があると思うはずです。

 

それでに、国語の授業でも解釈に関わる問題はすべて正解!とはなっていません。

どのような解釈でも認められるわけではなく、誤りと判断される解釈が存在しています。

 

では、作品の意味を決定するのは作者でも読者でもないとすれば、どのように考えたらよいのでしょうか。