文学の読解を数学的に考えられないか

文学の読解を数学的に考えられないか、ということをしばらく考えています。

 

高校数学では問題の解答に「場合分け」を行うことがあります。

たとえば、aの値によって最大値・最小値をとるxの値が変わるような二次関数の問題で、a>1の場合とa≦1の場合とに分けて考えるといったことです。

 

文学の読解における解釈も「場合分け」のように考えられそうな気がしています。

谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」という詩の解釈で考えてみます。この詩において、「僕」は「くしゃみ」をします。この「くしゃみ」の捉え方で「場合分け」を行います。

「くしゃみ」は、通常寒いときに生じます。寒くてくしゃみをしたと捉えた場合、「僕」は絶対的な孤独の中で寒気を感じたと解釈することができ、世界に対するネガティブな詩という評価を与えることができそうです。

しかし、「くしゃみ」は誰かに噂をされたときに生じるという俗説もあります。噂をされてくしゃみをしたと捉えた場合には、「僕」は(自分が他者を想像するように)自分のことを噂してくれる他者の存在を感じたと解釈することができ、世界に対するポジティブな詩という評価を与えることができそうです。

 

数学ほど厳密な場合分けではありませんが、このような考え方で文学の解釈のとりうる範囲を説明できるのではないかと考えています。

私が文学研究や文学教育に詳しくないだけで、すでに議論されているかもしれませんが。