物語の解釈の多様性

前回、物語の実用性について記事を書きました。

今回は、物語の解釈についての考えを書きます。

 

「物語の解釈は読み手の自由だ」や「物語の解釈は一つに決まらない」といった考えがあります。私はこの考えに対して異論ありません。

しかし、この考えが、「物語の解釈は何でもありなのだ。だから、テストで解釈を問うことは誤りだ」のようになってしまうと、それは行き過ぎだろうと考えています。

 

実際の物語を例に考えてみましょう。

たとえば、『スイミー』は、「仲間の大切さを伝える物語だ」や「大事なもののために知恵を働かせる意義を伝える物語だ」などの多様な解釈ができると思います。

しかし、「男性を賛美する物語だ」や「大量虐殺を肯定する物語」などという解釈をしている人がいたら、「さすがにそれはおかしい」となるはずです。

 

このように、明らかに「何でもあり」とはいえない解釈が存在します。ここから言えるのは、物語の解釈は多様に複数存在しうるが、すべての解釈が許容されるわけではないということです。

 

私はこのことから、文学の授業は物語の解釈が妥当といえる範囲を探る場となるべきだと考えています。

この考えの詳細についてはいつか別の場で論じたいなと考えています。

(なお、「テストで解釈を問うても問題ない」と「テストをしなければならない」は別の問題ですので、文学のテストの必要性についてもまた議論が必要でしょう。)

物語と実用性

国語科では物語や小説を文学教材として扱います。文学の学びは、教養や人間観の理解や文化継承のためと位置づけられ、生活をより豊かにするものと認識されることはあっても、多くの人の仕事には直結せず実用とは異なる文脈にあるとみなされる場合が多いように感じます。

「文学をなぜ学校で・国語科で学ぶのですか?」と聞かれることも少なくないです。その問いへの回答として、「生活をより豊かにするためです」と私自身が答えることもあります。

 

けれど、私はそれだけではなく、「実用的な学びの意義もあります」と答えるようにしています。

多くの物語には共通する構造を見出すことができます。山本茂喜氏(『魔法の「ストーリーマップ」で国語の授業づくり』等)は物語論の研究を踏まえて、その構造を「問題解決構造」として捉えて、国語教育への応用を図っています。

 

「問題解決構造」とはおおむね次のようにまとめられます。

「はじめに何かを失うところ(あるいは何かが足りていない状態)から物語がスタートする。そして、その欠如しているものを埋めるために、乗り越えなければならない問題に遭遇する。そして、何らかの手がかりを得て、その問題を解決し、失ったものの代わりを手に入れる。」

 

これだけではわかりづらいので、有名な「マリオ」を「問題解決構造」に沿ってあらすじをまとめてみることにします。

「はじめにクッパにピーチ姫がさらわれるところから「マリオ」の物語がスタートする。ピーチ姫を取り戻すために、マリオはクッパをボスとする様々な敵に立ち向かうという問題を乗り越えなければならない。そうした問題を、キノコやスターといったアイテム等を活用しながら能力を高め、クッパを倒すことで解決し、ピーチ姫を取り戻す。」

 

このような構造は他の物語にも共通して見出すことができます。

さて、これがどのように実用に結び付くのでしょうか。

実用の例の一つとして、ここでは入社試験で自己PRをするということを考えてみましょう。自分を価値ある人物と売り出す行為と自己PRを捉えれば実用的と言えるでしょう。

 

私が御社にとって価値ある存在であると伝えるために、私はすごいのですとただ伝えても相手にその価値は伝わらないでしょう。

野球の大会で優勝した等という実績を伝えれば、説得力は高まります。しかし、その実績は自身の力によるものなのかという疑問は残ります。それに野球の能力は高いかもしれないが、仕事に生かせる能力を身につけているのかは不明です。

 

そこで、「問題解決構造」を踏まえて、自分自身の経験を物語ると説得力が高まります。

「はじめはなかなか練習が勝利に結びつきませんでした。その理由として、チームメイトとのコミュニケーションが少ないことが考えられました。そこで、チームの連携を高めるために、コミュニケーションに関する知識を得たり、親しい友人に相談しながら、コミュニケーションの機会を増やすようにしました。その結果、練習の質が高まり、勝利が増えるようになっていきました。」

 

このような語りは、物語の構造に従っているので、何をどのように成し遂げられる人物であるのかを聞いている側にとって理解しやすく、魅力が伝わりやすくなります。

 

このような物語の構造を実用的に活用できるようにすることも、国語科で文学を教える意義・役割の一つと考えています。

 

 

ジャイアンとトゥールミンモデル

学習指導要領の改訂で「情報の扱い方に関する事項」が新設されたことで、論理・論証への関心が高まっているように思います。

国語教育研究では論証を捉えるモデルとしてトゥールミンモデルが取り上げられることがしばしばあります。

トゥールミンモデルは、C(主張)、D(データ・事実・根拠)、W(理由づけ、論拠)、B(裏付け)、R(反証)、Q(限定)の六つの要素によって論証をモデル化したものです。(詳しくはスティーヴン・トゥールミン『議論の技法 』)

このうちの、CとDとWを取り上げて「三角ロジック」と呼んだりする方もいます。

 

DとWとBが、Cの主張の「理由」に相当します。その「理由」を三種類に分けているのです。

しかし、この区別はなかなか難しく、主張に対する「理由」が二つ並んでいるだけではないかと思われるものも見かけたりします。

複雑な説明的文章の論証を分析しようとするときは私も混乱することがあります。

 

さて、DとWとBの「理由」の違いを説明するために、私がよく使うのが『ドラえもん』のジャイアンの論証です。

 

ジャイアンのび太に対してしばしば次のように言います。(以下、子どもの頃の記憶に基づいているので発言が正確でないかもしれません。) 

 

「おう、のび太。いいもん持ってるな。そいつ(=ゲーム等)をよこせ。」

 

これも一種の論証です。論証モデルに合うように発言を整理すると、

C:のび太のいいものはジャイアンに渡さなければならない。

D:のび太がいいものを持っている。

などとなります。

 

のび太がいいものを持っている」というのも主張を支える「理由」になっています。

しかし、のび太も納得できませんので、「そんな~、なんでだよ」等と抵抗します。

これに対して、ジャイアンが言い放つのがあの有名な台詞です。

 

「お前のものは俺のもの。俺のものは俺のもの。」

 

これも「理由」です。そしてこれはモデルに合わせると次のような形に書き換えられます。

W:もしのび太がいいものを持っているならば、のび太のいいものはジャイアンに渡さなければならない。

 

DとWの何が違うかというと、Dは実際の出来事であるのに対し、Wは仮定や規則となっているという違いがあります。

CとDの文言とWの文言はほぼ同じとなります。それは、WがDからCをつなぐ(架橋する)ためのものだからです。

 

では、BはDとWとどう違うのでしょうか。

 

「お前のものは俺のもの。俺のものは俺のもの。」に対して、のび太はまだ納得がいきません。そのような様子を見せると、ジャイアンは大抵、拳をみせつけて、のび太をだまらせます。

この拳を見せつけることも一種の「理由」です。書き換えると、

B:暴力に基づくと

などとなります。

 

このBは、Wを正当化するための裏付けとなっています。ただ、これは「理由」としてはちょっと特殊な事例です。「暴力」が「正当化」することになっているので。

 

このように身近な事例で当てはめてみると、各要素の違いがだいぶわかった気がします。

ただ、Bは特殊な事例だったため、他の事例も見てみるとよいでしょう。DとWの違いももっと見えてくると思います。

 

「言葉の意味が分かること」(光村図書5年)の教材分析

 光村図書5年の教科書に掲載されている今井むつみ氏の「言葉の意味が分かること」という書き下ろし教材を用いた授業を観察させていただく機会がありました。

 文章の要旨を捉えることを学習目標と位置づけた教材になっているのですが、その学習目標を達するにふさわしい教材と感じたので、言語化してみます。

 

 ここでは要旨を筆者が最も伝えたいことをまとめたもの程度に捉えておきます。

 まず、要旨を捉えるための方法として考えるのは、大事なことはだいたい文章の冒頭か終末(いわゆる「はじめ」と「おわり」)で述べているだろうということです。これでおおよそのあたりをつけられます。

 とはいっても、冒頭、終末が一文で端的に示されていないこともあります。また、文の意味がわからなければ、冒頭・終末に大事なことが書かれているという確信が持てません。

 そこで、次に考えるのは、筆者の考えを強く表す接続語や文末表現がないかを探すということです。

 本文では、「しかし」という前段を否定して自身の見解を示す際に用いられる接続語と「つまり」という前段の内容をまとめて自身の見解を示す際に用いられる接続語が置かれ、文末も「~のです」や「大切になる」「必要があります」という筆者の判断を示す表現が置かれています。 また、「さらに」という添加を表す接続語によって、筆者の主張が一つではないことが表されています。

 このような箇所が要旨をまとめる際に大事な要素となるでしょう。

 

 しかし、重要なのは、それらをつなぎあわせるだけでは筆者の伝えたいことを受け止められていない、ということが明らかになるようになる点です。

 それがよく表れているのが「「面」」という表現です。本文において、鍵括弧(「」)が多用されていますが、「面」と「点」はそれ以外と用法が異なり、辞書的な用法と異なることを表しています。そのため、「面」や「点」という表現をそのまま書き写すだけでは要旨をうまく表現できないため、筆者の例示に基づいてその意味を解釈し書き換える必要が生まれます。

 テクニックとして本文の言葉をつなぎあわせるだけでは要旨が作成できない形になっており、また、本文の内容自体が言葉の意味理解の複雑さを考えさせるものであり、技能的にも価値的にも優れた教材であると思います。

ChatGPTとの対話?

最近話題の生成系AIを知りたいので、国語教育に関する話題でChatGPTと対話してみることにします。まずは、「事実と意見の区別」についてお話してみました。

学習指導要領において「事実と感想,意見とを区別する」とあるなど、学習者が身につけるべき重要な考え方とされています。しかし、「事実と意見の区別」はナンセンスであるということを、宇佐美寛氏がたびたび論じています(『〈論理〉を教える』等)。宇佐美氏の論考を通して、私も「事実と意見の区別」は無理があると考えるようになっています。その理由については優れた論考が豊富にあるので、そちらをお読みください。

それでは、ChatGPTとの対話(誘導?)です。

chat.openai.com